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ここでは、ドイツについて詳しくご紹介します。
知れば知るほど、ドイツの旅や、ドイツ語を学ぶことが更に楽しくなります♪

ドイツ基本情報

ドイツ語の正式名称:Bundesrepublik  Deutschland
公式の英語表記:Federal Republic of Germany
日本語での表記:ドイツ連邦共和国
面積:357.114,22 km2
人口:約8226.3 (2007年10月)
公用語:ドイツ語
宗教: プロテスタント約2,710万人、カトリック約2,715万人(独連邦政府新聞情報庁)
首都:ベルリン/Berlin 約341,6万人 ( 2007年11月)
通貨:ユーロ(2002年1月1日より現金として)
国旗: この色は1813年のナポレオン戦争時のルートヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・リュッツオウが率いる義勇軍の軍服、黒地に赤の襟、金のボタンをシンボルカラーにしたのが由来といわれています。また、黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉を表すともいわれているそうです。


ドイツの歴史

近世 ドイツの再統一
東欧革命によって、東ドイツも徐々に変容を遂げ、1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、1989年11月9日に崩壊し、壁が開かれました。
1990年10月3日には東ドイツ地域の諸州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に吸収され、再統一となりました。
東ドイツ地域の北大西洋条約機構(NATO)加盟も、ソ連が譲歩する形で認められました。

1992年には欧州連合(EU)が発足、ドイツは欧州の中核国として存在感を増すこととなり、対外的には欧州の結束を強めることに努力し、コソボ紛争にはNATO加盟国の義務として第二次世界大戦後初めて参戦しました。
隣国フランスと関係を強め、独仏合同旅団・欧州合同軍の設置やNATOとEUの東方拡大を歓迎しました。
東西ドイツ
第二次世界大戦の後、ヤルタ会談の取り決めによってドイツの処分が行われました。
ポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部を奪い、オーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにしました。

また、プロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割したため、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失いました。 この時、多くのドイツ人が難民として残った国土に流れ込み、その国土もアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割占領され、さらに首都ベルリンも、市内を4カ国で分割されます。

1946年以降、アメリカとソ連がイデオロギーの違いによる意見の相違を深めると、欧州大陸を東西に分割する冷戦と呼ばれる対立状態になります。
それはすぐに分割占領されたドイツに影響を与え、1948年、米英仏占領地域が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断します。
アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解きました。

1949年、米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府を成立して分離独立します。
これにより、10月7日、ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立され、ドイツ国家と民族は東西に分裂してしまうこととなりました。
この時、「一つの国民、一つの国家」というハルシュタイン原則に従って、西ドイツ首相のアデナウアーが外交政策を展開したため、東西ドイツ両政府間の関係は緊迫した常態が続きました。

1961年には、ベルリンの壁が建設されますが、1970年代にはいると、西ドイツ首相ブラントが提唱した「一つの国民、二つの国家」という東方政策が定着し、東西ドイツ両体制の認定を前提とした西ドイツ国民の自由往来と経済交流が実現しました。
そして、東西ドイツ両国は関係を正常化し、同時に国際連合へと加盟することができました。
ナショナリズム
◆第二次世界大戦

1933年1月、ヒトラーが首相に任命され、1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務させると、国民投票によって総統に就任します。
すると、ヒトラーは再軍備やユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など、独裁政治を進めはじめます。
1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに侵攻しました。

ヒトラーは旧ドイツ帝国領西プロイセンの返還をポーランドに要求します。
拒否されると、1939年9月にドイツ軍はポーランドへ侵攻しました。
これはイギリスとフランスに対する宣戦布告となり、これを引き金に、第二次世界大戦が開始されることとなります。

ドイツ軍は電撃戦により西ヨーロッパの広大な地域を征服、イギリスは本土上陸の脅威にさらされました。
さらにイタリア軍との共同作戦で、ギリシアおよび北アフリカを攻略した後、1941年にはソ連に侵攻します。

しかし、1943年のスターリングラード攻防戦、1944年のノルマンディー上陸作戦での敗北後、戦線は崩壊を始めました。
ラインの守り作戦で反攻を試みたものの、東西からの連合軍の侵攻によってドイツ軍が劣勢に追い込まれると、1945年4月にヒトラーは自殺、5月にドイツは無条件降伏しました。


◆ヴァイマル共和政

ホーエンツォレルン家の帝政が終わると、1919年初頭のスパルタクス団(1918年末にドイツ共産党を結党)の蜂起などの混乱により、ドイツ社会民主党が政権を握ることとなり、フリードリヒ・エーベルトが大統領となり、 当時世界で最も民主的とされたヴァイマル憲法を制定した。

第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、ヴェルサイユ条約により、植民地と領土の一部の割譲や、1320億マルクという莫大な賠償金を支払い、更に軍備の制限といった厳しい責任を負わされました。
シュトレーゼマン首相の時代には、インフレの克服に始まり、ヴェルサイユ条約への履行政策をとって平和協調に努めました。

国際的信用を回復し、賠償額も軽減されたドイツは、経済・政局ともに次第に安定期に入っていきます。
工業が活発化し、資本主義が台頭するに伴い、社会民主党の勢力は衰えていき、それに代わる共産党が力を蓄えていきました。
しかし世界恐慌を体験し、過酷な打撃を受けると、ヒンデンブルク大統領が強権を発動し、内閣は次々に交代。
保守層は共産党の大躍進に危機を感じ、やがて民族主義を唱えるアドルフ・ヒトラーを支援。ナチスが台頭してきます。


◆第一次世界大戦

1914年6月のサラエボ事件を引き金に、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦した際、ロシア帝国がセルビアを支援したため、8月1日、同盟を理由にドイツ国はロシア帝国に対して宣戦しました。

その後、フランス、イギリス、日本なども参戦することとなり、第一次世界大戦へと拡大したのです。
当初、シュリーフェン・プランという短期決戦を計画していましたが、タンネンベルクの戦い、マルヌ会戦では予想をはるかに上回る兵力と時間を費やすこととなりました。

1917年、ドイツは北海と地中海において無差別潜水艦作戦を実行します。
これまで中立の立場を取っていたアメリカ合衆国も公海の自由を侵され、4月にドイツに宣戦しました。 7月には、議会内の講和を図る勢力が台頭しましたが、これをおさえたドイツ最高軍司令部が事実上の軍事独裁体制を確立することとなりました。

1918年になると、戦局は悪化の一途を辿りはじめ、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリアの同盟諸国が相次いで降伏します。
11月のキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を発表、オランダに亡命しました。
11月11日、コンピエーニュの休戦条約により、第一次世界大戦は休戦しました。


◆ヴィルヘルム2世による世界政策

ヴィルヘルム1世崩御の後、続くフリードリヒ3世が早逝すると、まだ若年のヴィルヘルム2世が即位しました。
このとき、対外政策でビスマルクとの意見が合わず、1890年にビスマルクは事実上解任されました。

ビスマルクが解任された後、ヴィルヘルム2世は皇帝専制政治を行い、内政においてはビスマルクの政策を否定し、1890年社会主義者鎮圧法を廃止すると、ドイツの世界政策に乗り出しました。

中心となったのは植民地再分配で、そのために海軍力の増強を行い、結果イギリスとの建艦競争に陥り、対英関係を悪化させる結果となりました。
また、帝政ロシアとの再保障条約を解消し、ロシアとフランスの接近を許したことによって、露仏同盟形成の原因を作り出しました。
アジア進出も視野に入れ、イギリスの3C政策に対抗して3B政策を展開します。
これにより、イギリスとの関係をますます悪化させ、英仏協商・英露協商の形成の遠因を作りました。

これらの政策により、ビスマルク体制は完全に崩壊し、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変わっていったのです。


◆ビスマルク体制

ビスマルク時代のドイツは対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能していました。
その一方で対仏包囲網を形成し、フランスに対する強い牽制を行いました。
これにより、同盟による戦争の予防が完成し、これをビスマルク体制と呼びます。

しかしこの体制下では軍拡が行われやすくなり、これが第一次世界大戦の遠因にもなりました。
内政においては皇帝ヴィルヘルム1世の下、宰相であるビスマルクに大きな権限が与えられ、半ば独裁的な政治が行われていました。

また、この頃中央政府に敵対する政治的勢力の排除も行われており、社会主義思想も厳しく取り締まられました。
1878年には社会主義者鎮圧法が制定され、南ドイツを中心に勢力が残っていたカトリック系の宗教勢力も一掃されました。


◆ウィーン体制

フランス革命後の混乱期に始まったナポレオン戦争が終結した後、オーストリア帝国の宰相であるメッテルニヒの主導によりウィーン会議が開催され、ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成されました。

ウィーン体制下のドイツでは保守的な政治体制が続き、19世紀のヨーロッパを席捲した民族主義、自由主義の波及が食い止められていましたが、ドイツ関税同盟の成立等によって、ドイツでも産業革命が急激に進み、経済活動の拡大を望むブルジョアやドイツ人の一体化を求める知識人達によって、1848年革命が展開されることとなります。
宗教改革
1517年、教会による贖宥状(免罪符)の販売に対し、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行いました。
このルターの批判は多くの人々に受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生むこととなりました。
事態の沈静化を図った教会側は、ヨハン・エック(論客)を送り、1519年にルターと討論をさせました。
この場においてルターは、さらに踏み込んで教皇、カトリック教会に対する批判を示すこととなりました。

その頃、ハプスブルク家が婚姻政策を通じてヨーロッパに広大な所領を有し、神聖ローマ皇帝位を世襲化させ、カトリック理念を用い一元的なヨーロッパ支配を試みていました。
そのなかでルターの起こした行動は、一元的な帝国支配を揺るがせる大きな障害となったのです。

1521年に、ヴォルムス帝国議会においてルターは自説の撤回を求められたましたが、これを拒んで帝国追放刑を受けました。
この際、ハプスブルクに対抗し、反教皇の立場をとっていた有力諸侯、ザクセン公のフリードリヒがルターをかくまったため、ルターは彼の所領内にあるヴァルトブルク城で、新約聖書のドイツ語訳に着手することとなりました。

ルター以前より聖書のドイツ語訳は試みられていましたが、彼の翻訳した聖書が定本となり、その頃発達途中だった印刷技術の影響も受け、各地に流通していきました。
このことは、中世カトリック世界の権威的言語であったラテン語にかわり、各国の言語に聖書が翻訳される元となりました。
文化的な一元性が解体され、各国の「国語」が形成される端緒ともなったのです。


◆三十年戦争

カトリックとプロテスタントの間でおきた「宗教戦争」とされ、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争ですが、実際には一端にすぎず、徐々に国家間の権力闘争の面が強くなり、権力を得ようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする多数勢力との「国際戦争」となっていきました。

第1段階:ボヘミア・ファルツ戦争(1618-23)
第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625-29)
第3段階:スウェーデン戦争(1630-35)
第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635-48)


中世 ドイツ諸都市
ゲルマン民族の大移動後、ドイツ人の居住地はエルベ川の西方に限定されていましたが、封建制度が安定した12世紀から15世紀にかけて、東方のスラブ人居住地への植民が活発に行われるようになりました。

12世紀の始めにはブランデンブルク辺境伯がおかれ、13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服しました。
両者が1618年に合併し、ブランデンブルク・プロイセン公国となったのです。

この頃、商人と手工業者による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘン、ケルンなどの有力都市は皇帝から特許状をもらい、帝国都市となりました。

13世紀には北ドイツの有力都市は互いの利益と防衛のために、ハンザ同盟を結成し、リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加していました。
ローマ帝国
◆叙任権闘争

ザリエル朝の歴代皇帝が帝国教会政策を進め、皇帝の権力強化を図る一方、皇帝と結びついた教会組織も勢力を拡大させていました。
しかし、教会組織は世俗統制下におかれることに批判して、教会の純化を目的とした改革運動がフランスのクリュニー修道院等で高まりました。

しかし歴代皇帝はキリスト教の指導者として真に振る舞っており、聖職叙任自体もほとんど適切なものでしたが、教会への影響力の強化を図ったグレゴリウス7世により世俗権力による聖職叙任そのものを聖職売買とされ、聖職叙任権を奪われそうになります。

このことを決定的にしたのはドイツ内の有力諸侯で、彼らは皇帝権が強化されることによる諸侯の権力の低下を懸念し、教皇の支持に回りました。
こうして、当時の皇帝ハインリヒ4世は教皇に謝罪を余儀なくされました。

さらにこの頃十字軍運動が開始され、聖地を奪い取りエルサレム王国を建国すると、教皇の権力はますます強化され、ハインリヒ4世の息子、ハインリヒ5世が教皇とヴォルムス協約を結ぶことにより、叙任権闘争は終わりを告げました。


◆ローマ帝国の成立

先の活躍により、オットーにローマ教皇のヨハネウ12世からローマ皇帝の冠を授けました。 これが「オットーの戴冠」です。これにより「神聖ローマ帝国」が成立したとされているのです。

こうして、戴冠を受けた東フランク王オットー1世は、西ヨーロッパにおける盟主としてその威光を高めました。
このことによって教皇と皇帝という聖俗両権の頂点を中心とした権力構造が西ヨーロッパ世界に形成されたのですが、この時点でも現在のドイツという感覚はあまり無く、歴代の東フランク王は、ドイツ支配にとどまらず、キリスト教理念に基づく普遍的な帝国の樹立を目指していました。
そして、教会組織を通じた帝国統治を図り、帝国内における皇帝権力は徐々に強化されていったのです。

また、歴代皇帝がイタリア遠征を繰り返したために、ドイツの分裂が進んだという見解もあるそうです。
これは、19世紀に入ってナショナリズムが高揚する中で、ドイツ統一を主張する勢力が主に展開したもので、まだナショナリズムが形成されていない中世では、逆にイタリア政策を通じて皇帝権が正統化され、帝国統治が円滑に進むこともあったそうです。
東フランク王国
次代のルートヴィヒ1世の死後、843年にヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は3人の息子に分割されました。

これにより、東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国(イタリア王国)が成立。
その後、870年のメルセン条約によって中フランク王国の一部が東西フランク王国に再分割され、現在のドイツ、フランス、イタリアの原形が成立しました。

911年のカロリング朝断絶後に、東フランク王国(ドイツ王国)は選挙王制になり、10世紀初頭にザクセン朝が成立しました。
初代のハインリヒ1世は、北方のノルマン人や東方のマジャール人の撃退に尽力し、ザクセン朝フランク王国の土台を築きました。
当時、西フランク王国の王権は極めて弱体で、イタリア王国も事実上崩壊へと向かっており、東フランク王が事実上西欧世界の盟主となっていったそうです。

2代目のオットー1世は、引き続き侵入する外民族の討伐で活躍しています。
フランク王国
4世紀後半からゲルマン人がライン川・ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立しました。

その中で、ガリアに5世紀末に成立したフランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていきます。

8世紀半ばに成立したカロリング朝フランク王国のカール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばし、西ヨーロッパの政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァール人を撃退するなどの活躍をみせ、800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝理念の継承者となりました。

また、アーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招き、古典古代のラテン語文化を復興させ(カロリングやルネサンス等)、古典文化やローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を取り入れた独自のヨーロッパを築き上げたのです。

古代 現在のドイツ南部では、紀元前1300年頃から紀元前200年頃にかけて、ケルト人のハルシュタット文明と、ラ・テーヌ鉄器文明が栄えていました。

ラ・テーヌ鉄器文明と同時期に、ドイツ北部地域にゲルマン人が居住し、ゲルマン人による社会を形成していました。

しかし、紀元前3世紀頃からゲルマン人の勢力が拡大。紀元前後にはライン川・ドナウ川周辺で古代ローマ世界と接触するようになりました。
その後、しばらくはライン川とドナウ川がローマ帝国とゲルマニアの境界線となっていましたが、4世紀後半になるとゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国の崩壊とフランク王国の成立によって、ドイツ地域は徐々に中世封建社会へと移行していきます。
Wikipedia参照


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